伝統行事のご紹介(御田植祭)
社報「金鷹山」|若宮八幡社では社報「金鷹山」を発行しております。PDFでご覧いただけます。 神社の話 人生儀礼のしおり|人生の節目や子どもの成長のお祝いに 若宮八幡社 blog リンク集
若宮八幡社について

御祭神と由緒

若宮八幡社の御祭神

  • 大鷦鷯命(おおさざきのみこと) 別名仁徳天皇
  • 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
  • 宇礼姫(うれひめ)
  • 久礼姫(くれひめ)
仁徳天皇

仁徳天皇

大鷦鷯命(おおさざきのみこと)⇒第15代応神天皇(おうじんてんのう)
古事記では品陀和気命(ほむだわけのみこと、一般には八幡大神と称される神様)の御子神でいらっしゃいます。本来、応神天皇の長兄であった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が天皇の御位につかれるところでしたが、時の趨勢により弟神である大鷦鷯命(おおさざきのみこと)が即位され、第16代仁徳天皇となりました。都から御覧になるも民の家から竈の煙が上がらないことを憂い3年間は税を徴収せず、御自身も慎ましい生活を営まれた話は夙に有名ですね。

古事記 仁徳天皇条文の説明

仁徳天皇・大鷦鷯命(おおさざきのみこと)は、難波の高津の宮に坐して天下を治めたもうた。この大君は葛城の曾都毘古の娘 石之日賣命(いはのひめ)を妻としての、生んだ御子は大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)次に墨江之中津王(すみのえのなかつみこ)、次に蝮ノ水歯別命(たぢひのみずはわけのみこと)、次に男浅津間若子宿禰命(おあさづまのわくごのすくねのみこと)の四柱じゃった。
また前に名の出た日向の諸県の君の牛諸の娘 髪長比賣(かみながひめ)を妻としての、生んだ御子は波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)またの名は大日下王(おおくさかのみこと)、次に波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)またの名は長日比賣命(ながひひめのみこと)またの名は若日下部命(わかくさかべのみこと)の二柱じゃった。また大君の腹違いの妹の八田若郎女(やたのわきいらつめ)を妻にしたのじゃった。また腹違いの妹の宇遅能若郎女(うじのわきいらつめ)も妻にしたのじゃったが、このおふた方には御子は生まれなかった。
その数を数えると、大鷦鷯命の大君の御子は合せて六柱での。男の子は五柱、女の子は一柱じゃった。そこで大江之伊邪本和気命が後を継いで天下を治めたのじゃ。(第17代履中天皇)次いで蝮ノ水歯別命が天下を治め(第18代反正天皇)次いで男浅津間若子宿禰命が天下を治めた(第19代允恭天皇)のでの、三柱の御子が相次いで天下を治めたということになる。
ある時のこと、大君は高い山に登り、周りに広がる国々を眺め渡すと、「国の中のいずこにも煙が立っていない。これは人々が皆貧しいからに違いない。それゆえに今から3年間人々を集めて働かせてたり、貢ぎ物を出させることをすべて止めることにする」と仰せになった。池づくりや水道を掘るのに人々を使い過ぎたのがわかったのじゃろう。そのために、大君の坐す大殿の屋根が壊れて、あちこち雨漏りがしても人々を集めて屋根の葺き替えをさせたりはなさらずにの、桶で漏る雨を受け、おのれは漏らない所に移って濡れるのを避けるという有り様じゃった。
そうしての3年後に再び山に登って国々を眺め渡して見たところ、どの家からも朝餉を作る煙が立ち上がっておったのじゃった。それでようやく人々は豊かになったと思うての、もういいだろうというので、大殿の繕いのために人を集めたり、貢ぎ物を出させたりすることにしたのじゃった。それからは人々の暮らしは上向いて、前ほどに苦しむことは無くなったのじゃった。それで、大君の御世を称えて聖の世と言うておるのじゃ。
中略
この大鷦鷯命の大君の御年は80余り3歳での丁卯の年(西暦427年)の8月15日に崩御されたと伝えておるの。御陵は毛受之耳原(もずのみみはら・大阪府堺市の大仙古墳、いわゆる仁徳天皇陵)にあるのじゃ。
※古事記では本来、大雀命と表記しますが敢えて日本書紀の大鷦鷯命で表記してあります。

武内宿禰について

紀田家(昔は紀家)の始祖である武内宿禰を御紹介します。
武内宿禰は伝説では、実に360歳という長寿を誇る怪物的な存在であります。また不思議な霊能力を発揮する武運長久、厄除けの神様でもあります。「古事記」によると、第12代景行天皇に始まり、成務、仲哀・応神・仁徳まで五代の天皇に244年間に亘り仕えたとされている。その間の功績で著名なるものが、仲哀天皇の奥方である神功皇后の新羅遠征の補佐を行ったことである。
武内宿禰の出自に関しては諸説あるが、宿禰を祖神とする平群氏、蘇我氏、巨瀬氏、そして紀氏などの有力氏族のイメージが投影されていると言われている。
戦後世代には馴染みが無いが、戦前には紙幣(5円札、1円札)の肖像にもなっていて、なかなか身近な存在でもあったのである。最近では聖徳太子や福沢諭吉のような存在ではなかろうか。
武内宿禰に関する話で有名なのが、福岡県久留米市高良大社の祭神「高良玉垂命」の由来である。高良玉垂命は八幡大神の随神とされる神で、記紀神話には登場しない神であることから、この神の性格を巡っては色々な論議が為されてきた経緯がある。「玉垂」の由来は、神功皇后が新羅に遠征して海上で戦った時、高良の神が潮の干満を操る呪力を持った玉を海中に投げ入れて戦勝をもたらしたことに因むものという。現に高良大社の祭神は一説には武内宿禰という説も存在し、また本殿の裏手には末社 印鑰神社が鎮座されその神社の祭神は武内宿禰をお祀り申し上げております。若宮八幡社の親神である京都石清水八幡宮の本殿近くには武内神社が、また男山の山麓には高良神社が鎮座されている。

仁徳天皇

歴史

人皇第65代花山天皇の御宇、寛和元年(985)12月、従五位下、紀兼貞朝臣(紀田家初代の祖)が勅宣を奉じて、伝灯大法師(南都大安寺の行教和尚の直弟)と共に京都男山石清水八幡宮若宮四所の御尊像を守護し奉り、この豊後国速見津郡八坂郷に下向致しました。下司村柏島に鎮座し奉ったのがその最初で、今を隔たる壱千有余年の昔のことであります。
元来、この八坂郷は宇佐の神領に属していたが、石清水八幡宮が京都男山に御鎮座になると共に、貞観の頃から石清水八幡宮の神領となりました。しかし、土地は京都から遠隔であるし、海路暴風とか海賊などの災いもしばしばであり、御貢物の輸送もなかなか意に任せられませんでした。ここに畏くも宇多天皇の第9皇子の一品式部卿敦実親王が、この途中の平安と神領地の五穀の益々の豊穣を熱願されて、御手づから八幡大神の若宮即ち大鷦鷯命(おおさざきのみこと)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、宇礼姫(うれひめ)、久礼姫(くれひめ)の四柱の御尊像を白檀木に奉彫され、延喜14年(918)8月、仁和寺で開眼供養を遊ばし、これを石清水八幡宮の神殿に奉安せられました。当社は即ちこの四所の御尊像を奉遷申し上げたもので、今なお壱千有余年の御神威をそのままに御神殿の奥深く鎮まりまして居られるのであります。
かくして当社は多くの神社とは異なり、畏れ多くも勅命によって御創建になった神社であり、誠に畏き極みであります。
その後、天喜5年(1057)3月生地村岳に、承安3年(1173)9月中村に、そして嘉暦元年(1326)11月現社地(金鷹山の聖地)に御遷座申し上げ、明治6年郷社に、大正10年県社に御列格になりました。累代藩公の氏神として尊崇篤かったことは申すまでもなく、地方郷民の宗祀として愈々御神威のいやちこに亘らせられることを拝し奉るのであります。

若宮八幡社の歴史

宮司区の歴史

若宮八幡社が鎮座される杵築市宮司区は杵築市の中心部から1キロ程の北西に位置し、東西1,100メートル、南北850メートル、小高い台地状の地形となっている。中央部には海抜40メートルの金鷹山若宮八幡社を有し、周辺は畑地・水田に囲まれた緑豊かな地域である。
北側は竹ノ尾橋、宮司橋、若宮橋、孝高橋で結ばれ高山川を境とし、鴨川区・草場区に隣接する。西側は馬場尾鴨川線で馬場尾区と接し、南東側は白水の池農業用水路で守末区・北祇園区と接し、孝高橋に至る範囲である。
区の中にはオレンジロード、市道、県道の3本の幹線道路が通っており、道路網は整備された地域である。
宮司の公民館も去る平成24年9月に改修され、また老人会の皆様方も毎月若宮八幡社の清掃奉仕をされるなど大神様もさぞかしお喜びのことと存じ上げます。
次に宮司区の色々な行事を紹介しましょう。

若宮八幡社の歴史

宮司橋からの高山川

弘法大師信仰と宮司区の御接待行事

御接待とは弘法大師の縁日である旧暦3月21日に行う供養のお祭りである。宮司公民館・各班別そして弘法大師像を所有している各家庭で祭壇を作り、御接待会場を示す幟旗、古くから伝わる御接待用具等を飾り、菓子や飲み物、御接待御飯などを準備して参拝者に提供する。この永く続いている弘法大師信仰行事は「僧侶は関与しない民間信仰行事」であり、御接待は地域や参拝者にとって娯楽や地域交流、癒しにあたる存在といえるのではないでしょうか。

亥の子の行事

宮司区では年代は不明であるが、100年以上の古くから盛んに行われている。子孫繁栄・五穀豊穣・商売繁盛を祈願し、旧暦10月の第1・第2の亥の日に行われていたが、現在では新暦10月の第1亥の日に行われるようになった。参加資格者は15歳(中学3年生)までの男の子であって年齢順に頭取1名、副頭取1~2名で取り仕切る。現在でも20数名の男の子が亥の子綱を握って元気に区内100数軒を廻って各家々を活気づけている。
亥の子石は頭取が翌年度の頭取に引き継ぐまで大切に保管しておき、その年の1週間ほど前から頭取以下によって高山川の水で洗い清められ、石の表面を研ぎ減らした瓦の破片で擦り磨きあげる。
亥の子石に付ける注連縄は、普通の縄より大きめに作られ、石のくびれに括り付ける。次に御幣は400~500枚の白紙でたくさん作る。串は長さ約3メートル、直径15センチ位の竹を用いて頭取、副頭取が堅持する。
亥の子つきは、氏神である若宮八幡社を振り出しに宮司公民館へ区内9班の各家々をついて廻る。その方法は亥の子石を中心に括りつけた縄を各自が持ち円陣を作り、歌に合わせて縄を強く引いて石を持ち上げ、また縄を地面に叩きつけるように緩めては石を地上に落とす。
亥の子をつけば地面が凹むから、その凹みに御幣を入れる。
《いーのこ 亥の子 亥の子餅 つかんもな 鬼うめ 邪うめ 角んはえた子うめ  さーんょ さーんょ きょうは天竺わがちょうに オリャ ひとつや ふたつは よーいのよい みっつついたら おーいのおい 大きなもんが出てくるように わーい》
【出典 宮司区のあゆみ】

物集家との由来

若宮八幡社累代宮司家である紀田家に大変ゆかりのある家柄としては、物集(もずめ)家が挙げられます。なかでも幕末から昭和にかけて国学者としてその名を知られた物集高世・高見・高量の3人の人物を御紹介致します。

物集高世(もずめたかよ) 文化14年(1817)~明治16年(1883)

豊後国出身の国学者。号は葎屋(むぐらのや)。
商家の次男として杵築藩に生まれる。物集家の祖先は山城国物集女(もずめ)村。一族の一人が杵築に移り住み、物集女から物集に改姓したと伝えられる。平田篤胤の復古神道やその学風に共感して、直接師事を受ける。その後意を決して大阪に出て塾を開き、国学の啓蒙育成に奔走するも諸般の事情により、失意のうちに郷里の杵築に帰ることになる。地元の藩校や宇佐の皇學館に於いて神典の講義や国学教授の依頼を受けている。明治12年(1879)には権少教正に任命され、この年の5月若宮八幡社の宮司となる。高世の一生は清貧の生涯であったと言われている。享年67。

物集高見(もずめたかみ) 弘化4年(1847)~昭和3年(1928)

高世の二男三女の長男として杵築北新町に生まれる。少年時代、故郷で漢学と国学を修める。長崎に出て蘭学を修める。20歳の折りに京都に出て、玉松掻に師事して国書を修める。
明治2年上京。平田銕胤の門に入り国学を、また神祇官東条琴台に師事して漢学を修める。明治7年(1874)27歳の時、岩田なつ子と結婚。教部省を経て内務省に移る。明治12年(1879)33歳の折りに月山神社・羽黒山神社・湯殿山神社の宮司に任ぜられ、学習院や女子師範学校の教授をも兼務している。明治19年(1886)東京帝国大学教授を任ぜられる。明治20年(1887)宮中御講書始めの講師を命じられる。明治28年(1895)勲六等瑞宝章を賜る。明治32年(1899)文学博士となり、東京帝国大学を退官。以後は私財を注ぎ込み在野の学者として研究に没頭し、貧窮の中で全国を行脚して約5万冊の書物を集めしかもそのすべてを読破した。昭和2年(1927)皇學叢書全12巻を刊行するまで生涯多数の著作を残した。昭和3年(1928)寺町の自宅にて逝去。享年82。

物集高見の掛軸

物集高見の掛軸

若宮八幡社の歴史

祖霊開運講

若宮八幡社開運講は、神社神道宗旨家庭の方で構成される祖霊講です。敬神生活の綱領にもとづき、若宮八幡社の神慮を畏み、祖訓を継ぎ祭祀に勤しむことを目的とした講組織であります。若宮八幡社境内の美しい自然環境と文化遺産の維持管理や講員相互の親睦と助け合いを柱とした和気藹藹とした雰囲気のなか、

  • ・春秋彼岸の中日に祖霊祭を斎行
  • ・年に一度、総会を開催
  • ・企画旅行を実施する

などの活動を行っております。

敬神生活の綱領
  • 一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清き誠をもって祭祀に勤しむこと
  • 一、世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと
  • 一、大御心を戴きて睦び和らぎ国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること
祖霊開運講

兼務神社

浜田社
浜田社
御祭神 :
  • 大鷦鷯命(おおさざきのみこと)  
  • 宇礼姫(うれひめ)
  • 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ) 
  • 久礼姫(くれひめ)
鎮座地 :
杵築市南杵築571番地

「歴史」の項で説明してありますが、今日の若宮八幡社は幾度かの遷座を経て現在地に至っていますが、発祥の地は柏島で千年を超える歴史を有しています。京都石清水八幡宮より神像四体と共に秘仏観音の尊像を賜り、下向のうえ境内東隣に大安寺を建てて尊像を奉安した。その後、600年を経た慶長元年(1596)に杵築藩主杉原伯耆守が、附近遊漁の際に網にかかった観音像がいつの年か失われたその秘仏であったので、これを寺に納め寺号を観音寺と改めた。しかし寺坊退廃のため、幾たびかの紛失があったが、その都度尊像は観音寺に戻ってきたようである。その後、庶民の希望もあり、33年ごとに開帳してきている。今なお若宮八幡社発祥の地を観音寺と称しているのも、このような由緒によるもので、現在は丘上に「浜田社」を祀り、明治年間は丘下に塩湯があり、農閑期には農民の入湯で賑わい、階上には宴会場兼休養室が設けられ、沿岸の砂浜は魚が多く子供たちの格好な遊楽地であった。

若八幡本社
若八幡本社
御祭神 :
  • 大鷦鷯命(おおさざきのみこと)  
  • 宇礼姫(うれひめ)
  • 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ) 
  • 久礼姫(くれひめ)
鎮座地 :
杵築市中1223番地

上記の浜田社から下りて、天喜5年(1057)3月生地村岳に、承安3年(1173)9月中村に、そして嘉暦元年(1326)11月現社地(金鷹山の聖地)に御遷座申し上げ現在に至っているのだが、途中の中村の地を若宮八幡社の元宮として祀ったのが若八幡本社である。神殿・渡殿・拝殿は嘉永4年(1851)の建築で江戸時代は幕府領であった。この神社は珍しく飛地境内地を持ち、向山神社と称している。土地の人は「権現さん」と呼ぶ。明治12年に合祀された。

船部若宮八幡社
船部若宮八幡社
御祭神 :
  • 大鷦鷯命(おおさざきのみこと)
  • 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
鎮座地 :
杵築市船部765番地
大片平若宮八幡社
大片平若宮八幡社
御祭神 :
  • 大鷦鷯命(おおさざきのみこと)
鎮座地 :
杵築市大片平768番地
神明社
神明社
御祭神 :
  • 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
鎮座地 :
杵築市杵築324番地
天満社
天満社
御祭神 :
  • 菅原大神(すがわらのおおかみ)
  • ほか一柱
鎮座地 :
杵築市大内4460番地
八坂神社
八坂神社
御祭神 :
  • 菅原大神(すがわらのおおかみ)
  • 素盞鳴尊(すさのおのみこと)
  • ※古事記では須佐男命と表記する
鎮座地 :
杵築市鴨川1405番地
貴布禰社
貴布禰社
御祭神 :
  • 闇龗神
鎮座地 :
杵築市南杵築391番地
八幡社
八幡社
御祭神 :
  • 応神天皇(おうじんてんのう)
  • 八幡大神 ※仁徳天皇の親神
鎮座地 :
杵築市鴨川148番地